7月18日 今日は・・・
7月18日に限らず、毎月18日は、「ホタテの日」です。ホタテの「ホ」を分解すると「十八」になることから、青森県漁業協同組合連合会とむつ湾漁業振興会が定めました。
最初は、ホタテの旬であり陸奥湾(むつわん)の「むつ」=六つに通じる6月の18日でしたが、後に毎月の記念日に拡大したということです。
「光化学スモッグの日」
日本で初めて光化学スモッグが発生したのが、1970(昭和45)年のこの日です。
東京都杉並木の高校で体育の授業中に、女子生徒が突然目の痛み頭痛などを訴えて倒れ、40数人が病院へ運ばれました。
この原因が光化学スモッグと断定されました。
【化学スモッグとは】
自動車や工場などから排出された窒素酸化物(NOx)や、ガソリンやシンナーなどに含まれる炭化水素(HC)などが、太陽の紫外線で光化学反応を起こし、光化学オキシダント(Ox)という新たな物質に変化する事です。
光化学オキシダント(Ox)の濃度が高くなるとスモッグ状態となり、白いモヤがかかったように見えます。
この現象を、光化学スモッグと言います。
人が光化学スモッグを浴びると、目やのどの痛み、頭痛などの症状が現れます。
光化学スモッグの発生しやすい条件は、
・風の弱い(風速3m/秒以下)
・気温が高い(20℃以上)
・日差しが強い(有害物質が紫外線を受けて化学反応します)
・大気がよどんで、視界が悪い(4Km以内)
・・・・・です。
光化学オキシダントの影響はマスクなどでは予防できません。
健康被害を避けるため、光化学スモッグ注意報が発令されたら以下の点に注意しましょう。
(1) 屋外での激しい運動は避ける
(2) 目などに刺激を感じたらすぐ屋内に入る
(3) 警報発令中はなるべく外出しないようにする
特に乳幼児やお年寄り、病弱な人は特に注意が必要です。
「ネルソン・マンデラ・デー」
南アフリカ共和国の政治家で、反アパルトヘイト運動を主導したネルソン・マンデラを賛える国際的な記念日。
ネルソン・マンデラの1918年の誕生日。
【ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ】
(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela)
1918年7月18日 ~ 2013年12月5日
南アフリカ共和国の政治家、弁護士。
南アフリカ共産党中央委員、アフリカ民族会議議長(第11代)、下院議員(1期)、大統領(第8代)を歴任。
若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受け、27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放されました。
翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。
デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。
1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て大統領に就任。
民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施しました。
1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退しました。
賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、レーニン平和賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。
称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。
南アフリカ共和国での愛称はマディバ、タタ(父)。
マディバとは彼の先祖が誰かを象徴する氏族名であり、部族社会の影響が残る南アフリカでは単なる愛称ではなく、尊称に近いものです。
また、ミドルネームのホリシャシャはコーサ語で「トラブルメーカー」の意味だそうです。
ちなみに、アパルトヘイトとは南アフリカ共和国で1948年からおこわなれていた人種隔離政策のこと。
南アフリカでは国民を白人、黒人、カラード(白人と有色人種の混血)、アジア人に分け、政治・経済・文化全ての面において白人を絶対的優位に置く政策をとっていました。
黒人をはじめとする有色人種には参政権はなく、同じ仕事内容で白人の給与を有色人種よりも優遇されていました。
さらに、有色人種を強制移住させることで白人と有色人種の居住区を完全に分離したほか、異なる人種間の恋愛や結婚を法律で禁じることで各人種が混ざり合うことなく別の社会を築くことがその狙いでした。
1830年のこの日、ウルグアイの最初の憲法が採択された。
「大河内傳次郎忌」
映画俳優・大河内傳次郎(おおこうち・でんじろう)の1962年の忌日。
【大河内 傳次郎】
新字体:伝次郎
1898年2月5日(戸籍上は3月5日)~ 1962年7月18日)
日本の映画俳優。
本名は大邊 男(おおべ ますお)。
戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれました。
サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作が生まれました。
悲愴(ひそう)感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした。
当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決めゼリフで人気を得ました。
戦後は大物の助演者として活躍しました。
京都に大河内山荘を造営したことでも知られています。